穢れを知らぬような真っ白な長い指が、黒のナイトを音を立てずに動かした時、それまで黙って側に控えていたカノンから「あ」という声が漏れた。

 シュナイゼルが考えごとをしながら、チェスの駒を動かすことはよくあることだが―――それは偶然にも彼の弟と同じ癖だった―――過去の己の局を並べているところは見たことが無かった。基本的に彼は過去にはこだわらない性質であるから、勝っても負けてもその局を並べることは無いに等しい。棋譜は取られていない一局だが、傍で見ていたカノンにとっても忘れようにも忘れられない一局だったためすぐにわかった。
「美しいとは思わないかい」
「は」
 局を並べ終えたシュナイゼルから呟くような声で問われ、カノンは驚きを隠せなかった。シュナイゼルが言うようにそれはどんな名人の対局にも劣らないと言える名局だった。だがその一局の相手はブリタニアに反旗を掲げるエリア11のテロリストの親玉である。ブリタニアが標榜する美とはほど遠い相手だ。その悪に対する賞賛はブリタニア帝国宰相にはあるまじきものである。
「彼は天才だ」
 シュナイゼルはまた呟くように断言すると、並べたよりも素早い、流れるような手際で盤を元に戻してしまった。そして、無言でまた白のクイーンを手に取った。再び彼が並べ始めた一局もカノンから見れば両者相当な打ち手と言えた。
「あれは九年前だったかな。チェスの強い弟がいてね。宮中のほとんどの名手を打ち負かしてしまったというので、私に白羽の矢が立ったことがあったのだよ。これがその時の一局…」
 迷いのない手で黒のホーンを動かし、二十二手まで並べたシュナイゼルの動きが止まる。カノンが不思議に思うと、シュナイゼルからかすかな笑い声が聞こえる。彼は喉の奥で笑っているらしかった。
「どうされました」
「我ながら執念深いと思ってね。いや、これも運命と言うべきかもしれない」
 まるで自分に言い聞かせるように囁くと、シュナイゼルは棋譜を並べはじめてから初めてカノンの方を振り返った。その顔は哀しそうにも嬉しそうにも見えた。
「弟は、ここでリザインした。美しい目に涙をいっぱい溜めて怒ったように席を立って行ってしまった。私は驚いて言葉もなかったよ。まだ早いと思ったからね」
「私もまだ早いと思いますが」
 カノンの合いの手にシュナイゼルは慈愛深い笑みを浮かべた。
「君も、誰も、我が最愛の弟には勝てない…」
 シュナイゼルの手が駒を動かす。
 カノンは知らずに鳥肌を立てていた。
 何万通りの未来の先には、しかし一本の道しかなかった。
「もう少し手が進んでいたならば、私も気付いただろう。あの時、誰にも見えていない先があの弟には見えていた。…当時、彼はたった九歳だった」
 その寂しげな声音にカノンははっと姿勢を正した。思わずまじまじと主君の顔を見つめてしまう。
「殿下、まさか…」
「残念なことに、今の私には彼以外考えられないのだよ」
 シュナイゼルは身内の誰かが亡くなったような沈痛な面持ちで、音を立てて白のキングを倒した。





『はじまりの一局』 2009/04/26
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