「神聖ブリタニア帝国は、本日をもって民主主義国家へと生まれ変わります」
 少女の凛とした声は、100万人に達する満場の会場に響き渡った。

 世界の覇王となり、絶対王政を強い逆らう国、逆らう者を容赦なく粛清していった神聖ブリタニア帝国の皇帝が粛清の刃に斃れた。そして、そのことにより、世界から事実上権力者が消えた。
 悪逆皇帝を討った世界の英雄であるゼロの指導の下、神聖ブリタニア帝国は絶対君主制国家から民主主義国家へと生まれ変わることになった。
 ゼロは、その宣誓を、悪逆非道を極めた神聖ブリタニア帝国の皇帝の妹にして、兄の圧制を良しとせず最後まで反逆した皇女、ナナリー・ヴィ・ブリタニアが行うようにと命じたのだった。

「あっ」
 ナナリーの小さな手から宣言の台本が落ち、重い音を立てて床を跳ねる。巻物状のそれはそのままころころと床を転がり、舞台の端で止まった。
 ナナリーは今、宣言のリハーサルを行っていた。
 明日に控えた宣言の台本は兄シュナイゼルを筆頭としたブレインによって作られ、世界が生まれ変わるのに完璧なできばえとなっている。この宣言を聞いた誰もが、世界が平和に向かって歩み始めることを確信するだろう。
「すみません」
 車椅子の車輪を手で動かし落とした台本を取りに向かおうとする目の前に、さっと腕がかざされた。
「いや、私が拾おう」
 コーネリア・リ・ブリタニア、新政権の立役者でありナナリーの義姉である彼女は今は常にナナリーの側に控えていた。ナナリーの練習を見守り、時折声の出し方や間の取り方などを教えている。
「ありがとうございます。コゥお姉さま」
 ナナリーの笑顔に、コーネリアは眉をひそめ妹を心配する姉の顔で応えた。
「顔色が悪いのではないか。もう全て暗記し、完璧だろう。明日に備え休んではどうだ」
「いえ、もう少し…まだ何か足りない気がするんです」
 ナナリーはそう言った後、コーネリアが自分に付き合って少しも休憩を取っていないことに気付いて青くなる。
「ごめんなさい、コゥお姉さま。お姉さまはもう休まれてください」
「私のことは心配せずともよい。だが何が足りないというのだ」
 「俺のことは心配しなくていい」それは、兄の口癖でもあった。
 ナナリーの答えは声にならず、込み上げ抑え切れなくなった嗚咽のうちに消えていった。



 ダモクレスでの兄の姿が忘れられない。
 兄は美しかった。
 数多の人の意思と命を奪おうとも、どれほどの罪を犯そうとも。

 この世のものとは思えないほどに―――

 ナナリーは控え室の姿見をじっと見据えた。
 兄を、多くの人を殺した人殺しの姿が映っている。
 己を見つめ返す双眸は兄とは違う色だ。
 髪の色も、顔も肌も何一つとして同じところはない。
 そのことにどれほど失望したことか。

 兄の罪過を贖うためならどんな苦役も引き受ける覚悟はある。
 だが、現実にあるのは惨めでひどく頼りないちっぽけな自分の姿だ。
 いつも側にいてくれた兄はいない。自分は全てを失ったのだ。

「少しでいいのです、私にお兄様に似ているところがあればよかった」
 薄暗い舞台の袖から、晴天の輝く太陽に照らされた壇上を見つめた。あそこに向かう勇気はなく、あるのは恐怖だけだ。ナナリーはたまらなくなって、胸にしまっていた思いを声に出していた。
「私にとってお兄様が全てだったんです」
 ナナリーは独り言を言っているのではなかった。
 宣言の刻限近くになったため、舞台の袖に控えるナナリーの背後にはゼロが立っていた。世界中の民を恐怖に陥れていた悪逆皇帝を討った英雄である彼は今日、ナナリーを神聖ブリタニア帝国代表として民衆の前に連れて行くという役目があった。
「髪でも目でもいいのです。少しでもお兄様に似ているところがあれば、」
 人々は己と彼を重ね責め、自分は真実、兄の妹になれただろうと。
 言いかけてなんて馬鹿なことを言っているのだろうと口を噤む。ナナリーが語りかけ、ゼロから答えが返ってくることはない。だが、真実の兄を知る唯一の相手だと思うと縋らずにはいられないのだ。
「愚かなことを言いました。私はお兄様が残したこの世界を」
「…君を見て、自分の姿と暴政を重ね、いたずらに恐れ責める者はいない。それだけが、君を悪逆皇帝の妹にしてしまった己の唯一の救いだと言っていた」
 背後のゼロから懐かしい声での予期せぬ答えが返ってきて、ナナリーは驚いて後ろの相手を見上げた。
 無機質な仮面を被った男は、ナナリーの頭上高くまっすぐと前を見据えていた。
「スザクさっ」
 車椅子が後ろからそっと押され、突然光にさらされまぶしさに目をつむる。舞台に出てしまったため、ナナリーは慌てて正面を向いて姿勢を正し、己に課せられた役目に備えなければならなかった。
「ルルーシュは…」
 不意に耳に入ってきた兄の名に、心臓を鷲掴まれる。
「自分がいなくとも、君には世界があると言っていたよ」
 まぶしい陽光に慣れたナナリーの目の前には、彼女の平和へ続く宣言を待つ世界中の民の姿と、鳥達が自由に飛びまわる青く美しい空が広がっていた。



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